ヒトは機械に近付き過ぎたのか? [日々の雑記]

破綻の無い日常、規則正しい生活、
安定した物品や場所の創造…。

そんなことが当たり前であるように、
ヒトは願って、考え、機械をつくりだしてきたと思います。

重いモノを持つために、
遠くへ早く行くために、
同じモノを沢山つくるために、
見えないモノをみるために、
機械は手や足や脳の機能をどんどん拡張した
ヒトの「写し」であるともいえます。

そうだとすると、
「写し」である機械をみればヒトがわかるのでしょうか?

その人の手を見れば、その人なりがわかる、と言います。
子は親の鏡、といいます。
他人の振りみて我が振り直せ、とも言います。
(ちょっと違うか…!)

だけどヒトは機械ではありません。
機械はヒトの「願い」を部分的に先鋭化した「かたち」です。

ヒトはヒトでしかないのに、自らがつくり出した機械に囲まれて、
自分も機械のように思ってしまったのかも知れません。

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機械を否定しているのではありません。
機械ではなく、ヒトがするべきことを考えているのです。

大学時代の師であり、福井人としての先輩である
川崎和男先生が震災このかたブログにて叫びつづけています。
「祈望から企望へ/日本の復興と再創成をめざして」

建築設計者として、
日本人として、
もちろんfukuistとして、考えるヒントを頂いております。

建築(空間)もまた、
ヒトの身体や財産を守るという「願い」を「かたち」にした機械です。

機械を生み出すヒトの「願い」が問われています。

「願い」こそヒトが持つことです。

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